山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 8〜
 大鳥居と長岡王子跡
 JR和泉鳥取駅の山側、雨山の麓に石の大鳥居があり、その下に「南無阿弥陀佛」と刻まれた石碑が一つポツンと残っています。これが是得上人名号碑で、ここが長岡王子跡と推測されます。
 信達の一ノ瀬王子より1.5㎞、かつて神武天皇が東征の時に通られた地でもあり、熊野詣での一行がここで小休止し、次に通らねばならない街道の難所『琵琶岸懸』を突破するための心の準備と装備の点検をした所といわれています。また、大鳥居は、石田の波太神社の方を向いており、旅人が道中の健康と安全を祈願して、神社の方向に手を合わせ参拝した場所と伝わっています。
琵琶岸懸(びわがけ)
 鳥居前より山中川沿いに山手に入って行くと、進むにつれて道は細くなり、わずか一人が通れるぐらいの原生林に覆われた小道が曲りながら続いています。この辺りの片側は断崖絶壁で、あやまれば谷底に転落するという大難所です。昔、盲目の琵琶法師が、熊野詣でを思いたち、びわを背にとぼとぼとここまで来た時、一陣の突風に杖をとられ「あっ…」と一声残し、川に転落していった。あとは法師の遺骸は川底に横たわり、愛用の「びわ」が、途中の木の枝に引っかかっていたという。その後、谷底を流れる水の音が、岩にかかって「コロン、コロン」と、びわを奏でるように聞こえたので、いつの間にか人々はこの難所を「琵琶岸懸」と呼ぶようになりました。
(おかあさんチョット2006年4月号掲載)
山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 9〜
公立小学校跡
 明治5年6月、新政府の学制発布により、各地の寺子屋は廃止され、旧鳥取郷内11カ村(東鳥取・西鳥取・尾崎・下荘等)も合併の上、尾崎に小学校が設置されました。ただ一村、山中村のみは、尾崎迄の通学が困難であったので、当時の戸長(村長)が堺県令(知事)に熱心に嘆願を続けた結果、この地に小学校の設置が認められ、仮校舎を建てて子女の教育をはじめました。のちに現在の分教場に移る迄62年間、ここに小学校(堺県立第51小学)がありました。昭和8年現在の地に移り、昭和55年鉄筋校舎になりました。
筆子塚
 この小社は筆神さんと呼ばれ、前述の小学生の使い古した筆をここに祀って供養したものです。
ほこらさん
 古老の話では、このあたりに尼寺があり、この墓の三基は尼僧の墓で、他の一基は、昔この一帯が湿地のため蛇が多くいたので蛇塚であるといわれています。新道ができる迄は、土壁の面に南向きに建てられていたもので、土壁沿いの小道は八王子神(下の宮)への参道でした。村の人からは『ほこらさん』と親しく呼ばれており、お参りすると、健康で頭がよくなるとのことから、今でも、花や線香の香りが絶えません。
(おかあさんチョット2006年5月号掲載)
山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 10〜
桜地蔵
 境谷への道を入ってすぐ、入口に桜の木のある古い階段を上ると山腹に、青岸渡寺をはじめ、各地の札所にお参りして戴いてきたお札を納めた「妙法蓮華経信解品第四経塚」があり、左隣に「1448年(文政五年)応仁の乱の18年前」と記銘の梵字石が並んでいる。和泉山脈の峰々を修行する行場が、紀州加太友が島を振り出しに28カ所開かれていたが、この地は「山中入江宿除蔵王」という行場があった所で現在も修験者が訪れている
境橋  日本最後の仇討ち場
 1857年(安政四年)10月、土佐藩士、広井大六は魚釣りの帰途、同藩棚橋三郎のために斬られた。その一子岩の助は、江戸に「仇討ち免許状」を申し出て与えられ、苦心し、探索の末加太に潜んでいた三郎を尋ね出し、1863年(文久三年)6月2日紀州藩より国境の境橋にて国払いされた三郎をその北側(山中渓側)で待ち受け、見事仇討ちを果たしたといわれる。これが日本で許された最後の仇討ちであった。
(おかあさんチョット2006年6月号掲載)
山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 11〜
旧庄屋屋敷
 江戸時代中期の建物(築石250年)で、当時の庄屋の屋敷です。内部は広い土間、数多くの部屋、太い梁の木組、白い土蔵、広い庭園等、泉州屈指の屋敷です。当時、庄屋、組頭、百姓代と村を統率する村方三役が郡代、代官から任命されており、庄屋はその中でも最上位にあって、村の雑事から年貢の割り当てなど責任の重い仕事に当たっていました。一般に関西では、庄屋、関東では名主と呼ばれています。
田中武八君碑
 山中渓の入口の山据に田中武八君と書かれた立派な石碑が建っているのが目に入ります。武八翁は山中村庄屋、田中家の12代目を継ぎ、明治7年和泉国24区山中村戸長を拝命、明治維新の諸制度の大改革を担当し、卓越した陰徳と崇高な奉仕の精神で、郷土のため多くの功績を残されました。この威徳を後生へのしるべとして残すために村の人達によって大正5年10月碑が建立されました。翁の遺業としては、山中小学校の創設、地福寺本堂建設、子安地蔵尊改修、新家庚申堂、観音堂再興、紀州街道の改修工事等数知れず、今も各所に残っています。
(おかあさんチョット2006年7月号掲載)
山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 12〜
熊野古道
 JR山中渓駅前の道路は、世界遺産として登録され話題を呼んでいる熊野古道に通じるもので、古くは南海道と呼ばれ、平安時代から鎌倉時代にかけて盛んになった熊野三山詣での道として『熊野街道』『紀州街道』とも呼ばれていました。熊野参詣は、時の上皇御幸から公卿・庶民に至るまで各層に広がり、「ありの熊野詣で」と言われたほどです。京から淀川を舟で下り、摂津の国渡辺津(現松坂屋ビル西側)で陸路に、堺・和泉・山中渓雄山峠を経て紀州を南下。熊野まで約百里、往復25日を要する幹線道路とはいえ、険しい道路状態であったと言われています。道筋には、旅の安全祈願するため熊野権現の分神として『熊野九十九王子社』が祀られました。山中渓地区にも地蔵堂王子、馬目王子等、現在も跡地が残っており、熊野街道の中でも最も難所であった琵琶ヶ岸懸も、昔のままの状態で雨山の山すそに残っている貴重な文化遺産です。平成6年には山中渓地区内の熊野古道は、国の指定する『歴史街道』として整備(石張り、照明等)され、保存されています。
(おかあさんチョット2006年8月号掲載)


山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 13〜
スベリ坂(泉南市岡中〜山中渓入口)
 泉南市岡中地域が雨乞いのため「意加美神社」を祀る雨山の麓に琵琶ヶ岸懸があり、そこへ真直ぐに伸びるスベリ坂は、1198年(建久九年)からの24年間に31回も熊野参詣をした後鳥羽院の熊野御幸記によると坂の途中祓をした処で、後に和泉瓦の粘土を採った粘土山を通過します。
中山王子(滝畑地区)
 かつて熊野三山参詣道に九十九王子社があったことは前述しましたが、中山王子は大阪側(山中溪)から紀伊国に入って、最初の王子社で、藤原定家の日記1201年(建仁元年)10月8日条に、その名が見られ、また、この付近は「雄の山中」といわれた所から、藤原頼資の日記には「山中王子」と書かれ、1210年(承元四年)4月24日条に修明門院が山中王子に参拝し、峠の雄山の人や無縁者に帷子五枚と六十両ほどをふるまったと記されています。江戸時代には、熊野古道沿いに周囲三十六間の境内があり、王子権現社が祀られていたようですが、明治時代に春日神社に合祀され、旧跡もJRの線路の敷設によって、なくなりました。
(おかあさんチョット2006年9月号掲載)
山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 14〜
最終回
 13回にわたる山中渓史跡シリーズ永らくのご愛読ありがとうございました。日頃何気なく通り過ぎていた場所も歴史的に深い意味をもつかけがえのない地域の重要な文化財であることがわかります。最近、山中渓の人々が中心になって史跡のボランティアガイドとして活動されています。
(おかあさんチョット2006年10月号掲載)