小川渓温泉と山中渓温泉郷 〜阪南市・山中渓 1〜
 お風呂好きの日本人にとって、高齢化時代を迎えて各地の温泉めぐりに拍車がかかったようで全国どこの温泉地も中高年の温泉ツアーで大繁盛。年金の大半が温泉めぐりに費やされているのでは?と思われる状況です。
 泉州地域でも、時代にのって1,000m以上の深い地中からお湯を汲み上げての温泉が点在するブームですが、かつて昭和中頃には、阪南市内にも、小川渓温泉と山中渓温泉というれっきとした天然鉱泉の沸く温泉郷が、2カ所、東鳥取地区の山手にありました。小川渓温泉では富士屋。山中渓温泉郷には五軒の旅館、即ち、桜の頃は京都の清水寺の舞台の観があったという「阪和館」、朱塗りのささやき橋を渡ると樹木や石を配した庭園のある「ほととぎす」、前に広い池があり、釣りやボート遊びもできた「つるのや」後ろに山、前は渓流に臨む「山中荘」、山中渓を一望できる位置にあり、彩色の竜宮風呂のある「元禄」と五軒の旅館が、春は桜、夏は納涼、秋は紅葉と四季に応じての楽しみがあり、銀の峯ハイキングコースも近くにある大阪の奥座敷として大いに賑わっていました。
 山中川のあたりは、昔から鉱泉が沸き、泉質は、硫化水素鉄分を含んで胃腸病や神経痛に効果があり山中渓は、中世には熊野街道、近世になってから「紀州街道」の宿場として栄えていました。
(おかあさんチョット2005年9月号掲載)

歴史を秘める山中渓 〜阪南市・山中渓 2〜
 前号で山中渓一帯は、かつて泉州を代表する温泉郷であったことがわかりましたが、山中渓は阪南市の南方和歌山県境に位置し、和泉山脈を横断する雄山峠に通ずる国道、貝塚和歌山線がJR山中渓駅の前を南北に走っております。最近では山の斜面を利用して作られた長いすべり台が人気の「わんぱく王国」と、毎年桜の季節に開かれる『山中渓さくら祭り』で賑わうぐらいしか注目されていませんが、中世には「熊野詣大道」と呼ばれました。昨年、世界自然遺産に登録され、話題を呼んでいる熊野古道の大阪側入口に当たる重要な地点として、歴史的にも意義深い史跡や遺跡が多く残る宿場町を形成していたことは、あまり知られていないようです。
 山中渓一帯には現在、約300世帯あり、自動車道路より逸れたかつての本通りは、750mにわたってきれいに石畳で舗装され、江戸時代以来の古民家(26軒)がその両側に立ち並んでいます。そこには、関所跡、本陣跡、山中渓庄屋宅等が残っており、一部は修復されたようですが、現在も当時のままで利用されています。境内に大きなしだれ桜のある地福寺、子安地蔵、山中神社等史跡も多く、説明看板も完備されていますので、ゆっくりと文化散策をたのしみながら、往時を偲ぶことができます。
(おかあさんチョット2005年10月号掲載)

山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 3〜
 前号で山中渓一帯に現在も多くの史跡が残っていることがわかりましたが、その主なものを紹介しておきましょう。故小谷方明氏が「泉南郡山中村の旅籠屋」昭和11年8月1日発行【近畿民俗】第一巻第4号)に往事のルポと記憶を載せています。それによると現在、残念ながら壊され敷地も売却され残っていませんが「とうふや」(写真)という立派な旅籠が、今の山中渓公民館前の西側「わんぱく王国」の駐車場のあたりにありました。
 「とうふや」は百年程前までこの地で牛宿を営業し、主に紀州の牛馬商(馬喰)が雄山峠を越えて宿泊し、屠場のある堺まで牛を5頭も10頭も連れ、帰りには次に肥育する子牛や得意先から依頼された牛等を引いて戻ってきました。建物は間口四間、二間梁の片入母屋、妻入本尾葺、入口二間、全部腰高障子入、道路面の白壁に○の紋が大きく墨で書かれ、入ると、広い土間、内庭との間には紺の半のれんが三尺の間に掛けられていた。この内庭の方には料理場の跡らしく「土竃」(かまど)が昔のままにあった。と記されています。山中渓は牛馬商の長い旅路の癒しの場として欠かせなかった宿泊所であり、また、「紀州鍛冶」や「屋根屋」などの職人や年季奉公の人も多く宿し、盆正月には峠は特に賑わったと言われています。参考資料(阪南市観光資源発掘・再生事業報告書)より
(おかあさんチョット2005年11月号掲載)
山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 4〜
 石畳の山中渓本通りを入ってすぐ左手の子安地蔵尊入口の案内板に従い、山手の方へ古びた路地に入ると、小さな小川を渡り石段を登った所に、背後に緑の山を従え地福寺が建っています。右脇に可愛い鐘楼、左手に地福寺本堂、正面に子安地蔵尊、右手に小さな観音堂、真中に見事な枝ぶりのしだれ桜(樹齢45年)を配した、こぢんまりした境内。日本の原風景を思わせるまとまったたたずまいの中に、西側には山中渓一帯の家並みが見渡され、かつて熊野古道の宿場として賑わった頃の繁栄が偲ばれます。
 地福寺は浄土宗知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来。本堂は明治18年、波太神社にあった神光寺を(当時のお金で)五百弐拾円で購入、移築したもので、宝形棟でこぢんまりと均整のとれたよい形をしたお堂です。
本堂脇にある子安地蔵尊は、雨山の近くのもと琵琶ケ岸懸の南にあった地蔵堂王子のもので、白地座という寺座があり安産祈願の霊験あらたかな地蔵として、毎年正月六日には、前年生まれた子供の帳付の式が行われています。
 墓所入口にある小堂、観音堂は、当地の住人で観音堂信者であった丸若長平が85歳の時、長谷観音より「本堂の裏にある霊木で、われを刻め」という霊告を授かり、その霊木で観音像を彫刻し小堂を建てて納めたのが、現在の観音堂です。
(おかあさんチョット2005年12月号掲載)

山中神社・山中関所跡 〜阪南市・山中渓 5〜
 山中神社
 地福寺の右隣、山麓に山中神社があります。平安後期の永長元年(一〇九六)に、神職は三沢善真の子孫が永代神主となることが定められ、その後、現在の二十六代目三沢道秀さん迄、連綿と受け継がれてきました。
 現在のJR山中渓駅北側(後に旅館山中荘のあった所)に、承歴三年(一〇七九)八月八日に山中渓八王子社として祀られました。明治四十二年(一九〇九)の神社合祀の時に、石田の鳥取神社に近くの馬目王子社と共に八王子社も合祀させられました。
 神主三沢氏は自宅付近の山麓を霊地と定め、八王子社の御神体(本地十一面観音)と、馬目王子社の御神体(丸石)の石祠をともに、小社を建てて祀り、山中神社として現在に至っています。


 山中関所跡
 この地は東西から山が迫り、間に川が流れ、関所として絶好の場所でした。南北朝時代に楠木正成の一族、岸の和田氏に仕えた橋本正高に気脈を通じていた鳥取氏がここに関所を設け関錢をとって、軍費のほか、法華堂の造営、運営に使ったと伝えられています。
 今のわんぱく王国入口南側あたりに、地元の人が今も「ほけんとう」と呼んでいる、六十六部廻国巡礼聖の供養塔があり、その辺りが関所跡と推定されています。
(おかあさんチョット2006年1月号掲載)
山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 6〜
 山中宿本陣跡
 1615年(元和5年)徳川頼宣公が、紀州に封ぜられてより、参勤交代時の本陣、土生喜左衛門邸のあった所である。(現在の山中渓住民センター南)しかし、山中、信達では、宿泊には使わずに、昼食休憩や馬荷物の中継所とし、宿泊は寺内町であった貝塚でとられた。
 紀州公の行列の折りには近郷より3千人もの助っ人がこの地に集まり炊飯、運搬、補給、清掃等に当たったといわれる。建物は建て替えられているが、街道から裏手の山麓に続く敷地には往時の盛観さが偲ばれます。

 道祖神(塞の神)
 板状の石を屋根にした小社は、塞の神をかねた道祖神である。山中の南入口に鎮座され、南からの邪神、疫病が入るのを防ぎ、また「熊野詣で」の旅人の道中安全の守り神でした。
  紀州藩では、毎年12月20日に犯罪人や悪疫の病人を境橋(和歌山との県境)より和泉の方へ追放した。その時、山中渓地区では「はての20日のろうばらい」と言って戸を締め切り悪疫の退散を願った。当時山中地区では、塞の神のお陰で被害は少なかったと感謝されていました。
(おかあさんチョット2006年2月号掲載)
山中渓の史蹟いろいろ 〜阪南市・山中渓 7〜
 地蔵堂王子跡
 平安時代後期には「ありの熊野詣で」といわれるほどに熊野詣でが盛況で、この道筋に熊野権現の分神が祀られました。これを王子と言います。浪速(大阪市)から熊野(和歌山県田辺市本宮町)までの各地で祀られ総称して九十九王子と呼ばれていました。そのうち阪南市の山中渓地区に二つの王子が祀られていたとされ、その一つが地蔵堂王子です。現在、地福寺にある「子安地蔵」に祀られているご神体は、もとは地蔵堂王子のものであったと伝えられています。

 馬目(うまめ)王子(足神さん)跡
 熊野街道に九十九の王子が祀られていましたが、山中渓地区には地蔵堂王子社と共に、もう一つ馬目王子社が祀られていました。山の麓に石の鳥居もある立派な社構えで、ここは熊野御幸の時の休憩所であり、足を休め、ワラジを履き替えて次に進む心の準備もしたというこの馬目王子社には、古いワラジを供えて供養し、旅の安全を祈ったことから俗に「足神さん」とも呼ばれています。
 明治42年には、ご神体は石田の波太神社に合祀され、又ご本体である「丸石」は山中神社に現在も立派に祀られています。
(おかあさんチョット2006年3月号掲載)