和泉(いずみ)の国
どうしてわざわざ和と泉と二字を連ねていずみと読むのでしょうか
 徳川時代の紀州(和歌山)は、徳川御三家の一つで尾張(名古屋)と並ぶ徳川幕府直轄の地でした。この和歌山と当泉州地域は孝子峠を経て紀州街道、別名孝子街道(現在の26号線)で結ばれています。徳川時代には大名行列がこの道を闊歩したことが予想され泉州地方の一番海側を通る紀州街道には昔の古い街並の面影が残っています。
 昔から和歌山と泉州地域は盛んに交流があり、お互い経済や婚姻等を通じて巾広く関連していました。それは、泉州コトバのアクセントにも和歌山弁の影響が残っており、また食習慣でも和歌山の茶ガユが各家庭で特に朝食に取り入れられ重宝がられたものです。
 このように泉州と和歌山との古くからの関係の深さが、仲良く和泉と書いていずみと呼ぶようになったと考えられます。
(おかあさんチョット2004年2月号掲載)

和泉の国の"水(いずみ)"
 泉州の地が「和泉」と呼ばれていますが、この地域には昔から良質な水が豊富に存在することから名付けられたと考えられます。
 現在、泉州地域を流れている各河川を見るに確かに以前に比べて流量は減ってきておりますが、和泉山脈に降った雨水は一旦地中に潜って伏流水(地下水)となり砂礫層の中を豊かな水量を保ちながら大阪湾の方向に勢いよく流れています。
 降雨期の土木工事では、この地下水の流出に工事が手こずるのが常ですが、この自然の恵みである「和泉の国の水」を求めて多くの繊維を中心とした地場産業が育ちました。
 泉大津から岸和田、貝塚にかけての毛布、織布の生産工場、泉佐野のタオル、泉南地域の紋羽(足袋の内側の厚い布)工場など、数ある中で特に全地域に多くの紡績工場が林立し全国から集団就職で集まったたくさんの若い女性労働者で街は賑わいました。繊維産業には、水洗い、晒、染色などの各行程に、また紡績工場内では空調に大量の水を必要としたからです。
(おかあさんチョット2004年3月号掲載)