海老野浜と清水弘法大師 〜阪南市〜
 南海尾崎駅南一番踏切から海岸線に出た所が海老野浜。残念ながら現在海岸線は、防波堤に囲まれ付近の車の駐車場と化し、昔の面影は残っていませんが、かって数十年前までは公園のように一体が松の木に覆われ、海岸線は白い砂浜が連綿と続き、付近の小学校では、夏の間、絶好の水泳の練習の場として利用していました。
 昔から海老野浜は地域の氏神様である波太神社の秋祭り(十月十日頃)の神幸祭の折には神輿の安置場所として神事を行う神聖な区域であり、当日は大勢の見物人で賑わいます。
 この海老野浜の西側にさりげなく建っている鳥居をくぐって整備された参道を百米あまり。あざやかに清水弘法大師と標された石碑をすぎると、よく掃除され整理の行き届いた神域が広がります。こぢんまりした中にも何となく心が落ち着き、さわやかな気分になるのが不思議です。これが、当地で昔より「清水のおだいっさん」と親しまれている"海岸で清水が湧き出る"という清水弘法大師です。
(おかあさんチョット2005年4月号掲載)



清水お大師さん 〜阪南市〜
 今回はまず、海老野浜の『清水のお大師さん』にまつわる昔話をお伝えします。
 昔、尾崎村に一人の老婆が住んでいました。そこへ、旅の僧が立ち寄り、一杯のお湯を頼みました。老婆は快く引き受けましたが、水を汲みに行ったきり、なかなか戻ってきません。不審に思った僧は、ようやく帰って来た老婆に尋ねると、遠くの新港まで汲みに行ってきたと話しました。僧はこれに深く感銘し、海老野浜の近くに杖を立て、ここに井戸を掘りなさいと言って立ち去りました。掘ってみると清らかな清水が沸き出し、喜んだ村人たちは近くにお堂を建て「清水庵」と名付けました。ここでは、今でも、湧き水が流れ出し地域の名水となっています。この旅の僧とは、かの弘法大師であったそうです。 『はんなん昔話より』
(おかあさんチョット2005年5月号掲載)



清水庵・弘法堂 〜阪南市〜
 清水大師の湧き水は阪南昔話により弘法大師の指示した場所を掘って湧き出たことがわかりましたがその後、現在まで涸れることなくコンコンと清水が湧き続け、おいしい水として近所の人にも利用されています。名水の湧き出る場所は他に数多く知られていますが、清水庵のような波打ちぎわで塩分の含まない清水が湧き出す現象は他に類のない価値と不思議さを秘めている存在といえます。
 本坊は、第114代中御門天皇の享保七年壬寅年二月、八代将軍吉宗公の時代に創建され、当然ながら弘法大師が奉られました。最近では、三人の総代さんをはじめ、阪南市の男女20名程の世話人の方々で、管理運営が行き届き、毎月20日が清水大師の日、特別に4月20日には年一回の大祭が催され、多くの参詣者で賑わいます。また、近くの小学校では二年生になると校外学習として、清水大師でその歴史やいわれを勉強することになっています。
 全国的に水不足が問題になっている今日、海岸で清水が湧き出るという貴重な自然の文化財を、地域の誇りとして世話人の皆さんと一緒に大切に見守りながら次代に受け継いでいきましょう。
(おかあさんチョット2005年6月号掲載)

皿田池とサラダホール 〜阪南市〜
 阪南市役所の正面に「皿田池之跡」と書かれた、大きな石碑があるのにお気付きでしょうか。これは昭和42年(1967)この地にあった皿田池を埋め立てた際、その跡地に当時の水利関係者によって建てられたものです。池は東西約120m、南北約164m、周囲約576mもあり、遊歩道もある立派な用水池でした。昭和40年(1965)頃までの南海本線尾崎駅山側は一面に水田が広がり、その中程に皿田池の堤防が一際高くその存在を誇るように連なり、その向こうに、黒田・下出地区の家並みが見られる、のどかな田園風景が展開されていました。
 その後昭和42年皿田池が埋め立てられ南海町(当時)の総合グラウンドとプールがつくられました。これが開発の始まりで、昭和51年(1976)阪南町役場(当時)の庁舎が更に平成元年(1989)に文化センター、図書館が建設され、そのセンターの愛称名に「サラダホール」として皿田池の名が残されました。NHKホールを模したといわれるサラダホールは、こじんまりとまとまった、出演者にも使い易いホールと評判になりましたが"サラダ"という響きのよい愛称と共に、市民の文化活動の中心として永く市民に愛されていくものと期待されます。
(おかあさんチョット2005年7月号掲載)

皿田池と古墳 〜阪南市〜
 大正年間に刊行された「大阪府全志」によると、サラダホール命名の由来となった皿田池は、もともと周囲約576mの池の中ほどに直径100m余りの丘陵があり、第11代垂仁天皇の皇子である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の墓と伝えられる前方後円墳でした。池はこの古墳の外濠のような格好で約300年前の江戸時代、尾崎村の用水池として改修され、皿田池と呼ばれるようになりました。
 その後、明治6(1873)年、より多くの用水を確保するための補修工事があり、池の中の丘陵部分が削りとられ、水面の部分が増して、10m余りの小山だけが残され、緑に覆われた中の島となり小さな社も祀られていました。この工事の際、石の棺の蓋と太刀一振が出土したと伝えられていますから、古墳であった可能性は、高いのですが、現在確実な物証がなく残念ながら言い伝えの域に留まっています。
 昭和51年、皿田池が埋め立てられた時に、中の島が残され、現在阪南市役所裏側駐車場の東角に青々とした樹木の茂みの中に立派な鳥居と石碑が建てられ宇度宮と記されて保存されています。一般の方にわかりやすいように"サラダ古墳"と名付けたい気分です。 
(おかあさんチョット2005年8月号掲載)