• 泉州豆知識〜泉南〜 小栗判官
  • 小栗判官
     二条大納言兼家の嫡子小栗小次郎助重は常軌を外れる事が多い人で、父兼家に勘当され常陸国の流人となった。家来10人を連れて相模の郡代横山大善殿の世話になる。横山殿の娘、照手姫(※1)の稀なる美しさに我を忘れて契りを結んだ。これが横山殿に漏れ伝わり小栗主従は毒殺され土葬される。家来は火葬にされた。
     一方照手姫は牢興に乗せられ相模川に流された。流れ着いた浦の長は慈悲深い人であったが無慈悲な妻によって人買い商人に売られた。更に越後、越中、能登、加賀、越前、若狭と売り飛ばされ、後に美濃国青(おう)墓(はか)の遊女宿に買われた。
     ところで、地獄に堕ちた小栗主従を閻魔大王が見て、主従11人を娑婆に戻そうとしたが肉体が残っていた小栗1人が娑婆に戻された。小栗には閻魔大王自筆の『この者を藤沢上人の弟子として渡すので、熊野本宮の湯の峯にいれるように』と胸札に書き記した。この時の小栗は盲目のうえ、手足細く腹は鞠のように膨れた餓鬼のような姿であった。。
     藤沢の大空上人は餓鬼阿弥陀仏と名付け「この者をひいた者は供養になるべし」と胸書きに書き認(したた)め、地車を作り、綱をつけ「えいさらえい」と引いた。多くの人に引かれ相模から美濃に至った。照手姫は夫の小栗とも知らず亡き夫の供養の為に引く事を思い立ち近江国大津の関寺まで引いた。別れの折、照手姫は胸札に「湯の峯の湯に入り病が治ったら帰りには是非立ち寄ってもらいたい。常陸国小萩」と書き添えた。。
     小栗は京の都、摂津国、和泉国から紀伊国に入り、いよいよ熊野湯の峯へ、険しい道では山伏に担がれてようやく湯の峯についた。湯の峯の湯に入った餓鬼阿弥は17日目で両目が開き、27日目で耳が聞こえ、37日目でものが言え、77日経つと元の立派な小栗の姿になった。小栗殿は熊野権現からもらった金剛杖をついて帰路に就いた。父兼家の屋敷に帰りついた日が丁度小栗の命日であった。小栗からこれまでの経過を聞いた両親もその不思議な因縁を知る、この事が帝にも伝わり美濃国を所領に賜った。後に照手姫を妻に娶った。
     ※1 照手姫 京都の御所を守る武家の娘であったが早くして父母と死に別れ、理由あって横山大善の養女として育てられた。
    長慶寺の主と鐘山和尚
     文政の頃(江戸時代後期)長慶寺の側に大きな古池があった。その池に何十年と長く長慶寺の主と言われる雌の大蛇が大勢の手下を従え棲んでいた。その名を「蛇王姫」と言った。 長慶寺の和尚は若くて美男だったので蛇王姫は和尚を誘惑しようとした。
     蛇王姫は「どえらい和尚か知らんけど所詮、若い男やんか、あの方も欲があるに違いあらへん」という事で蛇の神通力で妙齢の美女に変身して、朝早くから法事に出かけた和尚を待ち受けた。 …続きを読む
    ゆきりの租
     信達馬場は水利に恵まれない農村地域であった。江戸時代中期この村に辻井 利佐衛門と言う医師がいた。なかなかの名医師らしく村内のみか、遠方の富家(ふうか)からの往診の依頼も絶えなかった。「こないに立派な先生が何で町へおいでまへんのや」「その腕がもったいないやおまへんか、こんな田舎でくすぶってる法はおまへんがな」と町の金持ち達が進めるのであった。
     実は利佐衛門には一つの信念があった。20数年前利佐衛門が15、6歳の時、 …続きを読む
    鬼木田物語
     昔むかしの事であった。ここは岡中村の百姓、市五郎の家である。女房お松の腹は太鼓のように膨れハアハアと肩で息をしている。暑さきびしい折から傍目にも見るに耐えないものがある。お松の母、お竹は岡のお地蔵さんに安産を一心に祈るのであった。しかしある日の事、「お松が無事にお産しますよう、男児でも女児でも結構でおます。」といった具合に一心不乱に祈った帰りお松を見舞ったのであるが、祈願の甲斐も無くお松は息絶えていた。 …続きを読む
    小板谷小十郎の最期
     むかしむかしの事であった。ここ泉州樽井の浜に大勢の人々が集まっていた。 材木を一杯に積んだ小板谷の船が白砂青松の浜に寄せるところです。 やがて浜へ着いた船から材木がおろされ、直ちに市が開かれ、この材木の取引が行われた。 材木を手にした人々は「何せ安うに分けて貰えるさかい大助かりやんけ、小十郎さまさまやで」 「おまはん、知らんかったんかいな、小十郎はんは木の葉のお金で材木仕入れてくるんや、そやさけ、何ぼ安う売っても損せんのやがな」「そうかいな、木葉をつかまされた問屋は災難 …続きを読む