• 泉州豆知識〜泉南〜 ゆきりの租
  • ゆきりの租
     信達馬場は水利に恵まれない農村地域であった。江戸時代中期この村に辻井 利佐衛門と言う医師がいた。なかなかの名医師らしく村内のみか、遠方の富家(ふうか)からの往診の依頼も絶えなかった。「こないに立派な先生が何で町へおいでまへんのや」「その腕がもったいないやおまへんか、こんな田舎でくすぶってる法はおまへんがな」と町の金持ち達が進めるのであった。
     実は利佐衛門には一つの信念があった。20数年前利佐衛門が15、6歳の時、父 利兵衛と同じ村役の一人であった小平次の村人の為に働くという烈々たる誠意に漲っている様子に感慨を受けた。小平次も利発な利左衛門に期待するものがあったらしく「ぼん、これからは学問の時代や、人には適材適所があるもんや、ぼんは医学の勉強をしてみいな、この村に病気で困っている人は何人もおるやないか」と言うのであった。そして間もなく利左衛門は勉学のため江戸へ旅立った。これが小平次との永の別れになった。つまり利左衛門が江戸遊学中に農民一揆による藩の米蔵破り事件が起こり、間もなく主犯の小平次が処刑されたのである。無事学問を修めた利左衛門はこの事を知り、大変悔しく、悲しい思いをした。この上は小平次の遺志を継いで微力ながらも世のため人の為に尽くそう。村人の健康を守ろうと考え、この地で開業したのであった。
     当時の岸和田藩主は岡部 長備(ながとも)公であった。実はこの殿さま、この時相当病が重く日々悪化して行く様であった。陰陽師の占いにより『日根郡信達馬場の利左衛門と言う名医に診せるとよい結果が得る事が出来る』という事で利左衛門が岡部の殿様の診療をした。殿さまの御病気が薄皮を剥ぐように日に日に回復していった。殿様は「辻井 利左衛門とやら、こたびは大儀であった。その方希望があれば何なりと申してみよ!必ず叶えて取らせようぞ」と上機嫌で言った。 利左衛門は村の水利に利便を図って下さる様、諄々と村の窮状を訴えるのであった。 その結果、岡中・幡代・馬場の三村は道光寺池に夏の土用の終わりの三日三晩の間に限り金熊寺川なめり橋分水から道光寺池への放流を許され、この年以来豊作が保証された。この取り決めはつい最近まで続いていた。
     堀河ダムが完成(1972年)してからは水利問題は解決された。辻井 利左衛門の功績を語り伝える為に石碑が極楽密寺の境内に義民小平次の石碑の横に並んで建立されている。
    長慶寺の主と鐘山和尚
     文政の頃(江戸時代後期)長慶寺の側に大きな古池があった。その池に何十年と長く長慶寺の主と言われる雌の大蛇が大勢の手下を従え棲んでいた。その名を「蛇王姫」と言った。 長慶寺の和尚は若くて美男だったので蛇王姫は和尚を誘惑しようとした。
     蛇王姫は「どえらい和尚か知らんけど所詮、若い男やんか、あの方も欲があるに違いあらへん」という事で蛇の神通力で妙齢の美女に変身して、朝早くから法事に出かけた和尚を待ち受けた。 …続きを読む
    鬼木田物語
     昔むかしの事であった。ここは岡中村の百姓、市五郎の家である。女房お松の腹は太鼓のように膨れハアハアと肩で息をしている。暑さきびしい折から傍目にも見るに耐えないものがある。お松の母、お竹は岡のお地蔵さんに安産を一心に祈るのであった。しかしある日の事、「お松が無事にお産しますよう、男児でも女児でも結構でおます。」といった具合に一心不乱に祈った帰りお松を見舞ったのであるが、祈願の甲斐も無くお松は息絶えていた。 …続きを読む
    小板谷小十郎の最期
     むかしむかしの事であった。ここ泉州樽井の浜に大勢の人々が集まっていた。 材木を一杯に積んだ小板谷の船が白砂青松の浜に寄せるところです。 やがて浜へ着いた船から材木がおろされ、直ちに市が開かれ、この材木の取引が行われた。 材木を手にした人々は「何せ安うに分けて貰えるさかい大助かりやんけ、小十郎さまさまやで」 「おまはん、知らんかったんかいな、小十郎はんは木の葉のお金で材木仕入れてくるんや、そやさけ、何ぼ安う売っても損せんのやがな」「そうかいな、木葉をつかまされた問屋は災難 …続きを読む
    小栗判官
     二条大納言兼家の嫡子小栗小次郎助重は常軌を外れる事が多い人で、父兼家によって常陸国の流人となった。家来10人を連れて相模の郡代横山大善殿の世話になる。横山殿の娘、照手姫(※1)の稀なる美しさに我を忘れて契りを結んだ。これが横山殿に漏れ伝わり小栗主従は毒殺され土葬される。家来は火葬にされた。
     一方照手姫は牢興に乗せられ相模川に流された。流れ着いた浦の長は慈悲深い人であったが無慈悲な妻によって人買い商人に売られた。更に越後、越中、能登、加賀、越前、若狭と …続きを読む